国産パン1号は?また、その味とは??
4月12日はパンの日ということをご存知ですか?これは1842年4月12日、日本で初めて西洋式の「パン」が焼かれた日にちなんで、パン食普及協議会が1983年(昭和58年)に制定しました。
伊豆韮山の代官だった江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)が、自分の屋敷内に窯を作りパンを焼かせたものが、記念すべき国産パン第一号と言われています。この名前を聞いて、歴史好きな方なら、ピンときた方も多いはず。先ごろ世界遺産に指定された「韮山反射炉」は、兵学と海防の大家である江川が江戸幕府の命を受けて造った大砲鋳造のための溶鉱炉です。
1842年というと日本では江戸時代の末期にあたります。日本近海への黒船の来航や、清・イギリス間に勃発したアヘン戦争など、国防策を急いで講じることが幕府の急務でした。そんな折、長崎出身の洋式砲術家の高島秋帆(しゅうはん)が、従来の戦で用いられていた日持ちがしない握り飯の代わりとして、西洋式の「乾パン」に着眼しました。兵法家として高島の教えを受けていた江川もさっそくパンの製法について学び、屋敷内にパンを焼くための窯を築造します。こうして保存性・携帯性にも優れた「兵糧パン」が完成したのです。
江川の兵糧パンの成功に刺激を受けた各藩は、競うようにパンの製造に取り組み、外国からの攻撃に備えるようになりました。水戸藩ではオランダ人から伝えられたパンとビスケットの製法をもとに作られた「兵糧丸」。長州藩は陶磁器で焼いた「備急餅」。備急には非常食用という意味があります。結局、外国との戦争には至らず、結果としてこのパンは戊辰戦争に使われ、官軍も旧幕府軍もパンを食べて戦ったとか。薩摩藩は明治元年の東北遠征の折には黒ゴマ入りのビスケット「乾蒸餅」を携帯し、重用したということです。
ところで気になる、当時のパンの味は…?現在の乾パンに近く、固くて甘みはなかったようです。当初、江川は砂糖や卵を加え食味にも配慮して試作しましたが、高島のアドバイスを受けて、材料を小麦粉と塩・米麹のみとして、携行に便利で腹持ちのよい「兵糧パン」を完成させました。
当時のパンを再現した商品は、江川太郎左衛門の屋敷跡や、九州などでも「堅パン」として販売されています。実際に味わい、幕末に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。